第一話

奥日光の四季は美しい。

遅い春を告げる八汐のつつじの群落が山々のそこかしこに現れた時

結氷していた湖は滝となって岩ばしる。

眩い程の初夏の緑が萌えた後、野鳥の声が響き

高山植物が乱れ咲く。

そして夏の華やいだ湖面は、静寂が支配する水面に変わり

紅葉黄葉を鮮やかに映し出す。

早い冷え込みが木々に触れ、枯葉の上に舞い散った粉雪は

やがて一面の銀世界を創りだす。

明治も十年を数えた頃、昔は女人禁制だった不動坂(いろは坂)を上っていく、一組の夫婦があった。

下野の国は鹿沼の辺り、南摩村の貧乏大名南摩網守の子新十朗とその妻である。

維新で何もかも失った夫婦は、ひたすら新天地を目指して山を登って行った。

たぶん2人の夫婦は、新政府から出来るだけ離れたかったのだろう。

中禅寺湖を過ぎ戦場ヶ原を抜け、登りきった所は小さな湖だった。

すぐに硫黄の匂いが鼻をついた。

何でこの地を選んだのか、彼らにも分からないだろう。

徳川だけでも300年。

僧侶達が切り開いた歴史は、優に1000年を超える日光では

新参者は、なかなかとけ込める所ではない。

東照宮や輪王寺、二荒山神社が並ぶ門前町では

新しく商売を始める事など、とてもその余地は無かった。

湯の湖という湖の周りの地は、殆どが新政府のものだったが、

新十朗は、まず温泉が湧いている土地を借りる権利を取得し

僅かにあった私有地を買った。

そして山々に分け入り、溶出している水を引いた。

息子の久吉夫婦を呼び寄せ、小屋を立て湯守になった。

同じような事をしている人々は何軒かあったが、彼らは町に生活の基盤が

ある人達だったから、

新十朗の家族のように、この地で生きなければならない様な切羽詰った境遇ではない。

しかし標高1500m、冬は零下20度近くまで下がるこの地は、通年の商売を許さなかった。

毎年雪が降る前に山を降り、街で借りた借家で活きた。

とにかく貧しかった。

なんといっても武士の商法である。

しかし時代は少しずつ変化していた。

日本は外国と国交を開き、東京には各国の大使館が出来、

その大使館の別荘が日光の町や中禅寺湖畔に建つようになった。

日光はそのような外客を受け入れる観光地になっていったのである。

町には日本のホテル史に名を残すホテルが数件建つようになった。

新十朗の子久吉は、そのような時代に敏感に反応した。

なけなしの金をはたいて食堂を中心にした宿泊施設を作った。

今で言うinnだろうか。

1882年(明治15年)新十朗と久吉の「南間ホテル」は創業した。

この久吉の商売は当たった。

避暑に来た外国人達は、散策の途中で食堂に寄り、日が落ちて帰りが大変になれば泊まった。

久吉はベッドを作り、鍵のある部屋を増設した。

町の八百屋や魚屋は、配達できる距離にはない、国有地を借り増し畑を耕し野菜を作った。

鶏を飼い、豚を飼い、朝食のミルクの為に牛も飼った。

家族総出の労働の中に、久吉の3人の娘達がいた。

長女の康は、目立たない大人しい子だったが、よく働いた。

そして、彼女の才能は次第に開花していく。

外国人から可愛がられ、パンの焼き方、ケーキの作り方、、そして洋酒やリキュールの知識まで教えられた。

その時代には小麦すら手に入らない。

彼女は外国人から調達してきた。

彼女が厨房の主だった。

オーストリア大使リッターご夫妻は、彼女に本格的なホテルビジネスを学ばせたいと、オーストリアに連れて行くことを申し出た。

だが久吉は断った。

娘が心配なのではない。

彼女がもはや大黒柱だったのだ。

奥日光湯元「南間ホテルからヴィム,そしてオフィスジノへ」←見ちゃってね♪

「南間哲的田園調布潜伏生活」-明治15年に奥日光湯元南間ホテルから発したヴィムが負債総額30億円で倒産して、僕は無一文以下♪見てみて♪

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